竹槍おじさん



 戦争に負けそうになっていた。皆殺しにしたはずの敵は新しい仲間を増やして押し寄せ、頼りになるはずの味方とはいつのまにか電話も繋がらなくなり、奪ったはずの領地はことごとく取り返された。気がつけば資源も人口も面積も乏しい自国に閉じ込められていた。そしてあってはならないことが襲ってくる。少ない資源をやりくりするために真鍮の鍋で作った戦艦をさとうきびから作った燃料で動かした。大規模な生産工場はあらかた叩き潰されていたため、町工場で年端もゆかぬ女の子が爆弾に火薬を詰め信管を取り付け、たまに事故であたり一帯が吹き飛ばれたりした。ゴハンが足りないので食糧は政府により厳重に管理され、三食全て給食制となった。米を水で炊くのではなく、米で水に味をつけるようになった。牛乳からは脂肪が抜き取られた。もちろんデザートの冷凍みかんはなくなった。そんな状態で戦況を挽回できるはずもなく、やがてそのへんの街にも空から爆弾が落ちてくるようになり、人々は予兆を感じると穴を掘って隠れるようになった。爆弾が落ちてくるたびに穴を掘るのは大変なのであらかじめ大きな穴を掘っておくようになった。逃げ遅れた人は降ってくる爆弾を座布団で受け止めて生き残ろうとしたが無理だった。
 そんな状況でも人々は希望を捨てなかった。戦争に勝つとか負けるとかは日々の生活に追われてちっとも実感がわかなかったが、彼を見ているともう少しだけ米で水に味をつけていようと思うのだった。その人は、竹槍おじさんと称されていた。本当の名前は誰も知らない。あまりに端的なその呼び名に誰も本名を尋ねようと考えないからだった。
 竹槍おじさんは見た目四十歳過ぎくらいである。顔が四角くて縦と横の幅がほとんど同じである。いつも眉間に皺を寄せている。髪に白いものが混じり始めている。首が肩に埋まっている。腕が一般人の腰くらいの太さで、腹筋が六個に割れていて、ケツの割れ目で角材を割ることができて、足の裏に画鋲が刺さっていても出血するどころかまるで気づかず、そして普段は青竹を煮て食っていると噂されている。とても怖い外見なのだが気さくな性格で、遊びに行くと細かく刻んだ青竹を炊き込んだゴハンを振舞ってくれる。らしい。
 竹槍おじさんは竹槍を投げるのが得意である。どのくらい得意かと言うと、まずは絶対に的を外さない。強風だろうと真夜中だろうと高速で移動していようとでたらめに踊っていようと狙った獲物は逃がさない。そして遠くに投げられる。正月に凧を揚げている横で竹槍おじさんが投擲の練習をしていた。投げた槍は凧よりも高く上がってそしていずこかヘ落下していった。ちなみに凧は、これ以上高度を上げると糸が耐えられなくなる、程度には高く揚がっていた。らしい。ちなみにちなみに竹槍おじさんの投げた槍がある農家の長男の股間に落下し強制的に去勢されてしまったらしいが、竹槍おじさんの人気を翳らせる要因にはならなかった。
 そのままなら単に彼はオリンピックの竹槍投げの種目で金メダルを欲しいままにしただけと思われるが、なにぶん今は戦争中だ。毎日毎日敵の飛行機が爆弾を降らせにやってくる。爆風に巻き込まれると家が壊れる。人が死ぬ。家を失った人は路頭に迷い、残された人は悲しむ。竹槍おじさんは正義感が強く情に厚く使命感も強かった。これ以上みんなが困るのを黙って見ているわけにはいかなかった。だから竹槍おじさんは宣言した。今度街に敵の飛行機が来たらおじさんが全部竹槍で撃墜してあげよう、と。そして景気づけに竹槍を大空に思い切り投擲した。その高度は自己最高と世界最高を同時に更新し、学校帰りの少年の肛門に落下し、純潔を奪った。みんなは喝采を以ってこれを受け入れた。誰一人おじさんの力を疑う者はいなかった。
 さて、今日も敵の飛行機がやってくる。おじさんは近所でいちばん高い丘の上に陣取っていた。この日のために準備万端整えられた最高の戦場だ。樹木は全て切り払われ、見通しがよくなっていた。街のみんなが総出で竹槍を生産し、「アタレ」「必中」「士魂」だのとまじないの文句が刻まれ、それらは残らず丘に突き立てられ、さながら針山のようになっていた。刺さっている竹槍を抜いては投げ抜いては投げ、という寸法である。街の人々は言った。我々が抜いて渡す係をやりましょうか、と。しかしおじさんは言った。きみたちは穴に隠れていなさい。万一私が死ぬようなことがあれば、おひつに残った竹御飯を腐る前に食べて欲しい、と。人々は滂沱しながら穴に逃げていった。最後に残った幼い娘の、おじちゃーん! という声が耳に残った。竹槍おじさんは微笑む。それが勝利を確信してのものなのか、諦観してのものなのかはわからない。ただ、男が覚悟した時の笑みなのは間違いない。
 空の彼方に胡麻粒のような敵の飛行機が現れる。やがて雲霞のような騒音と大きさに成長し、おじさんの人並みはずれた視力が飛行機に乗り込んだパイロットのあくびを認めた瞬間、敵の飛行機たちは射程距離に入った。第一投を外すわけにはいかない。外したらまず魂が負けてしまう。念入りに想像した。己の竹槍が飛行機を貫くさまを。必殺の気合が空に届き鋼鉄の腹から燃料と煙を噴き出し墜落する映像が音とにおいすら伴って生成され、おじさんは、かつてない規模の大編隊を、街を残らず焦土と化すほどの火力を持った飛行機たちを、呑んだ。力が漲る。もはや奴らは墜とせるかどうかわからない脅威ではなかった。未来を造り出したことに絶頂を覚えた。おじさんは全身の筋肉をきしませ血管を膨らませ顎を噛み砕く勢いで歯軋りし手をまっすぐに目標へ伸ばし血涙を流しながら――投擲した。あらゆる物理法則を肌で学習し、大気の動きさえ読みきった槍は、狙い違わず先頭の飛行機に命中し、機関部を破壊されたそいつはきりもみ状態で落下していった。悠長に最期を見ている暇はない。すぐ傍に刺さっている竹槍を引き抜いてすかさず投げる。引き抜いて投げる。投げる。槍を投げた数だけ飛行機は落下し、後続部隊はさすがにおかしいと思ったらしいが、なにしろ奴らはまともな反撃を予期していない。混乱の中引き返すこともできない。いつしかおじさんは笑い始める。微笑む、などという生やさしいものではない。血に興奮し、勝利に酔う戦士の哄笑だ。墜落した飛行機が背後で凄まじい音と光を伴い爆発し、気分は否応なく盛り上がり続ける。おじさんの笑い声は爆音にも負けないほど大きく激しくなってゆく。丘の中心部の竹槍を使い尽くし、次の槍を抜くために走って移動する必要が出てくる。それがまた新たな興奮を呼び覚まし、おじさんの口から涎が飛び散り、わけのわからないことを空に向かって叫ぶ。おじさんは戦闘の中で両手同時投げをマスターした。もちろん命中率は十割だ。一度竹槍が命中した飛行機にもう一度竹槍を突き刺し、機体をまっぷたつにするという遊びを発明した。慌てて脱出するパイロットを狙い撃ちにするのも忘れなかった。おじさんは己が新たな段階に至ったことを歓喜とともに受け入れた。敵の飛行機たちは既に部隊の八割以上を失っていた。全滅、どころではなかった。自然災害によって滅びる生物種さながら。そう、絶滅、という言葉こそふさわしかった。おじさんがまたしても竹槍を投げる。その竹槍は二機の獲物をまとめて貫き、おじさんは猿のように手を叩いて喜ぶ。
 戦場が夕陽で赤く染まっている。爆弾をいっぱいに抱えた敵の飛行機は、おじさんの竹槍によって一機残らず撃墜された。街には一個の爆弾も落ちることはなかった。おじさんは町を守ったのだ。まずは万歳三唱しようと思う。我が愛しの故郷に向かって。
 振り返る。
 街が夕陽で赤く染まっている。街が炎で真っ赤に染まっている。おじさんは気づいていない。撃墜した飛行機が残らず街に突っ込み、積載された爆弾は律儀に全て爆発し、街が火の海と化していることを。これだけ景気よく燃えていては、穴に隠れた人々も残らず蒸し焼きになっているであろうことを。万歳が終わった後は、さらに激しく哄笑が再開される。もはや一機の飛行機も飛んでいない空にその声はよく響き、街の外れまで届いた。誰も聞いている者はいないが。ふと、おじさんは握り締めたままだった竹槍を見た。そこには歪んだ文字で「がんばってね」と彫られている。幼い子供の手によるものだ。おじさんの胸に温かいものが溢れる。この気持ちをみんなに伝えるべく、まずは竹槍を夕陽に向かって投げつけるのだった。



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