京都



 その蝉は羽が欠けていた。もはや空を自由自在に飛ぶことはできなかった。全く啼かないところを見ると、きっとメスなんだろう。私は心配だ。彼女の羽がもげてしまうまでに伴侶を見つけることが出来たのか。彼女が無事に子孫を残せたのかどうか。
 神社では未だ夏真っ盛り。蝉がやかましく啼き、日陰はどこまでも心地よく日なたはまぶしく熱く。小学生らしき子供が、夏休みの宿題と思しき写生に取り組んでいる。私はそこで羽の欠けた蝉を見つけた。石畳に転がっていたので、私は最初、彼女が死んでいるのかと思った。だが時折羽根を震わせている。まだ、生きていた。私が拾い上げると蝉はびびびびびびと暴れわきわきわきわきと脚を動かした。元気だ。いつもならひとしきり遊んだあと、そこらに逃がしてやるのだが、珍しく私は気まぐれを起こした。まだまだ余力があるにも関わらず、飛べなくなってしまったその蝉が愛しくなったのかもしれない。
 おそらくそれは人間の一方的な感傷に過ぎないのだろう。
 本来ならば、彼女はそこで息絶え風雨にさらされ土に還っていくはずだ。だが私は、その蝉ともっと一緒にいたいと思った。せめて今日一日、彼女と過ごして、本来自由に飛び回り記憶に残すはずだった風景を一緒に見たいと思った。たとえその記憶はすぐに体とともに朽ち果ててしまうとしても、いやだからこそ他の蝉には絶対できないことをさせてみたかった。だから私は、手に提げていた鞄にその蝉をつかまらせた。
 鞄に蝉を止まらせて歩くのは愉快だ。たぶん、日本のどこを捜してもいないはずだ。蝉に手をよじ登られている旅行者も、バスに乗り飛ぶことなく長距離を移動する蝉も。私は彼女と街をおもうさまうろついた。
 ある庭園。石灯籠ひとつに苔に覆われた地面。そして木々を飛び回り夏を謳歌する蝉たち。本来は彼女もその輪の中にいたはずだ。しかし今は私の鞄の上をよじよじと歩き、何を考えているのか口吻を突きたてたりしている。ひょっとして腹が減っているのか? 私は庭園を出ると、近くの木に彼女を止まらせた。するとさっそく食事にとりかかったのだが、口吻は木に入ってはいかない。私は木の下に座り込んで、暫く待ってみることにした。文庫本なぞ読んでいたらあっという間に十分ほど経過し、何故それがわかったのかというと、彼女が突然飛行を試みたからである。しかし欠けた羽ではやはり飛ぶことはできず、逆さになって地面に落ちてしまった。私が手を差し伸べるとすぐに捕まってきて――蝉の手足の感触がこれまでより随分痛い。いくら棘付きの手足だとしてもこれは。
 よくよく観察してみれば、私の腕から、彼女は水分を摂取しようと口を刺していたのである。木からは何も得られなかったのだろうか。そのまま放っておいてどうなるか試してみたかったが、痛みがいささか我慢しがたい段階に至っていたので、私は彼女を引き剥がし鞄に止まらせた。そして考える。彼女には食事をする力も残っていないのだろうか。ひょっとして私は、蝉が今まさに衰弱していくさまを目の当たりにしているのだろうか。あるいは、私が連れまわしたせいで彼女は弱っているのだろうか。どちらも的外れな推測かもしれないし、どちらも正解なのかもしれない。いずれにしろ、蝉はわずか数日で死んでしまう生き物なのだ。何が起きてもおかしくはない。彼女の極度に圧縮された生に嫉妬すら覚えた。
 夕刻になる頃には、衰弱はより顕著なものとなり、彼女はあまり動き回らなくなっていた。私も移動をやめ、ある寺院にてボケーと枯山水を見ながら思索にふけっていた。思索の内容を詳しく書くのは私の名誉に関わるので控えることにする。そろそろひぐらしの出番かと思ったのだが、相変わらずあぶらぜみを始めとする面々の声しか聞こえない。いささか残念だった。
 陽が沈みかけ、帰路につかねばならない時刻になった。私は彼女といて楽しかった。引きずり回されていい迷惑だったかもしれないが、私にささやかな楽しみを与えてくれた彼女に、最大限の感謝を贈りたかった。そして、どこで彼女と別れるべきか、ずっと考えていた。
 寺院を出ると、最寄のバス亭にちょうどバスが到着したところで、私は走ってそこへ向かった。無事にバスに乗り込み、開いている席に腰を下ろし、運賃である小銭を捜そうと財布を取り出したところで、私は彼女がいなくなっていることに気がついた。どこかで落としてしまったのだろうか。私は立ち上がってバスの中をさりげなく見て回った。しかし蝉はいない。昼ごろはまだ、私が走った程度では振り落とされることはなかった。しかしもう、捉まっていることもできないほど弱っていたのか。一体どこで落ちてしまったのか。不本意な別れかたをしてしまって、残念で仕方がなかった。彼女が心配でならなかった。せめて最後は、木に捉まらせてやればよかった。日没とともに力尽きて地面に落ちてしまうとしても、きっと、たぶん、その方が幸せではないかと思うのだ。そういえば、道中ずいぶん蝉の死骸を見かけた。彼らは道路に転がっている場合もあれば、すでに朽ちかけ腹に穴が開いて、落ち葉に埋もれている場合もある。一体いついかなる瞬間に、彼らは「死ぬ」のだろう。飛ぶ体力がつきて、手足の力もつきて、地面に落ちてもしばらくは腹を震わせ啼いているのだろうか。太陽を見上げながら、仲間たちの声を聞きながら、どんな心境で逝くのだろう。私は時々考える。虫たちは、人には及びもつかない別次元の心を持っているのではないかと。陳腐な想像なぞ、根こそぎ殴り倒してしまうような思考で生きているのではないか、と。
 全ては遅きに失した。私のわがままが、もう少し彼女と一緒にいたいという気持ちが、この事態を招いたのだ。ほろ苦い想いを持て余しつつ、私は休暇を終え、故郷に帰ったのだった。



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