センター試験



 例えば子供の頃。遠足の前日。
 あなたは、どんなふうに過ごしましたか。
 幸いにもわたしは、わくわくして眠れなくなって無理やり寝ようとするんだけど結局寝不足のままバスに揺られてゲロを撒き散らすなんて伝説は残さずに済んだし、逆に熟睡しすぎて遅刻さらには置いてきぼりなんて目にあったこともない。普通に眠れた。そして、普通に眠れたんだから普通に起床できればよかったんだけど、
 そうそう人間都合よくはできてない。
 わたしはイベント前になると、目覚ましに先制攻撃をかまし家族の誰よりも早く目を覚まし、新聞配達のおじさんから直に新聞を受け取り、雨戸を開けてキンキンに冷えた朝もやを深呼吸して、無意味に荷物を確認して、一人でごはんが炊き上がるのを待ちながらひたすらテンションを上げ出発前に疲れてしまうという、それはそれでムズカシイ奴なのだった。
 その癖は幼稚園の頃から今に至るまで変わっていない。
 だから、今日も、センター試験初日の今日も、人生で六番目くらいには大事な今日も、当然のように日の出とともに起きてしまった。
 目を開いたその瞬間から心臓は高鳴りっぱなしで、とてももう一度眠れる状態じゃなかった。


 六時ちょっと前。
 何度フライングしようと時計は別にわたしを恨んだりはしない。でもちょっと申し訳なくなるのだ。せっかくセットしたアラームを鳴らないうちに解除してしまうのは。
 布団の中で上半身を起こす。緊張で体が強張っているのがはっきりわかる。胸が熱い。
 こういう時は――。
 目を閉じて、自分の体を抱いて、大きく息を吐く。しばらく、そのまま。
 ゆっくりと目を開けて、布団から這い出し、無意識のうちの枕元の単語帳に手を伸ばそうとしてばかばかしくなってやめる。ずっとこの癖の対策を考えてきたのだ。まず、時間まで寝てられればそれでよし。早く起きてしまっても勉強はしない。今更何をしても無駄。正確には体力を使ってしまうのが無駄。だから、ええと、せめてゆっくり準備をしましょうと……。
 んー。
 対策立てられたようでそうでもなかった。
 カーディガンをはおって部屋から出て、家族を起こさないようにぬき足で一階に降りて、居間の雨戸を開けて真冬の冷気を取り込もうとしたら、
 雪が、降っていた。
「あ……」
 上を。
 きれい。
 空が、灰色均一に塗りつぶされている。庭に、染み込んで消える。道路が斑点模様に濡れている。。真っ白い息がほっぺたをくすぐるように流れて消える。服を通して寒さが伝わる。背中を丸めてカーディガンの前を合わせる。
 見とれて――ぶるりと震えがきた。
 よく考えれば、試験当日に雪なんて邪魔以外の何物でもないんだけど、それでも、雪は好きだ。
 窓を閉めてガスストーブを最大火力でつける。ホットカーペットの電源をマックスで入れる。
 ゆっくり準備しようと思っているのに、緊張しているせいか妙にてきぱきと体が動く。顔を洗う。髪を整える。鏡を見ればあからさまにテンパった顔の自分がいた。
 二階に戻って着替え。さんざん迷った挙句、かっこ悪さと寒さを天秤にかけてジーンズの下にタイツを穿くことにする。手がかじかんで上手く動いてくれない。ボタンが留められない。手のひらをこすり合わせて息をかける。部屋の中なのに白かった。
 やっとのことで着替えを終えると、今度はもちものちぇっく。筆記用具とお金と受験票と――お兄ちゃんにもらったお守り。絶対こんなもの信じないと思って、神社にお参りとか全然しなかったのに、お守りなんか嫌いだったはずなのに、何で大事に持ってるんだろう。持ってるだけじゃなくて、こうやって、胸に当てて、祈るみたいな真似まで。目を閉じて、願いを、込めて。
 ……余計緊張してきた。
 やばいやばい。
 足がふわふわする。
 台所に行くといつの間にかお母さんが起きてて、寝癖のついた頭のままで朝ごはんの支度をしていた。真面目くさって「おはよう」と挨拶をかわす。色々訊いてくる。よく眠れたか、体調はどうか、お弁当は何がいか、忘れ物はしてないか。わたしの答えを待たずに飛んでくる言葉にうんざりして、さっさとストーブの前に避難してテレビをつけ天気予報をやってるチャンネルを探す。
 一日中、雪か。
 中央線止まるなこりゃ。
 でも大丈夫。
 なぜなら、
「あ、お兄ちゃん」
 スウェット姿で大あくびをかましつつ、お兄ちゃんは、
「おはよ。車、出すだろ?」
「うん」
 我が家には執事もといお兄ちゃんが一人にハイヤーもといワゴン車が一台あるからです。
 お兄ちゃんの運転する車の助手席に座ってるのはとても楽しいのです。


 ごはんが美味しくない。白い湯気も味噌汁の香りも納豆のねばねばも、どれもこれも全然食欲の対象になってくれない。でも食べないともたないと思って、ほとんど義務感だけで口に押し込み、最後はお茶漬けにして流し込むように食べた。一緒にごはん食べてるお兄ちゃんが時々こっちを心配そうな目で見るのが困る。だいじょうぶだってば。
 ……たぶん。
 食べ終わって歯磨いて準備が全部終わってお兄ちゃんも免許証とか持って後は出るだけ、という段階になってもまだ時間が余っている。無意味にうろうろしたくなる。じっと我慢してこたつに当たる。じょじょに勢いを増す鼓動が苦しくて、地学の教科書をめくっているけれど頭に入るはずもない。こんな状態で試験受けても受かるわけない。
 教科書を、閉じた。
 肩が落ちて、
「はあ」
 とため息が出る。
 それでまたお兄ちゃんがタイミングよく、
「もう行こうか?」
「……うん」
 二人で立ち上がる。
 玄関に行ってコートを、手に取る。
 冷え切っていた。
 居間に置いてあっためておけばよかった。


 体の末端部分は文字通り冷遇されていると思う。外に出てどこから寒くなるかといえば、手先と足先と頭に決まってる。特に頭は防寒具が少なくて困る。
 コートを着て、マフラーを口のあたりまでぐるぐる巻いて、暖房が利いた場所だと汗ばんでくるくらい厚い手袋をはめて、濡れても平気なようにスニーカーにして、わたしの身長にはどう見ても不釣合いなゴツくて長い傘を手に取る。お兄ちゃんがドアを開けて、わたしが外に出るのを待っている。
 玄関をくぐり、屋根と空の境界ぎりぎりに立って、
「ねえ、お兄ちゃん」
 背中越しに「なんだよ」という声が聞こえる。
「風が吹いてないとさ、雪って真っ直ぐ落ちてくるんだね」
 お兄ちゃんがわたしのすぐ後ろに立って腕を伸ばし、雪の結晶を手のひらに掴もうとして、
「あ……」
 一瞬でそれは水になってしまった。何故かものすごく羨ましくなって、わざわざ手袋を外し、同じように手の平に雪を落とす。東京には珍しい、粒が小さくていかにもよく積もりそうな雪だった。
「世界史がね」
「ん?」
 すぐ後ろにあるお兄ちゃんの体に寄りかかって空を見た。灰色の雲に覆い尽くされた空は、朝日が遮られどこも均一の明るさに見える。衣ずれの音。たぶん、お兄ちゃんも上を向いたんだと思う。
「世界史のくせに日本のことも出るんだよ」
「そりゃあ、日本も世界の一部だからな」
「世界史のくせに……」
 こういう時、お兄ちゃんは一緒に怒ってくれるわけでも、説教をするわけでもない。ただ、ボケをかましたりとか、自分の体験談を話したりとか、
「まだ行かなくて平気か?」
 ――頭を撫でたりとか。
 大丈夫だよ、とわたしは小さくうなずく。
「ねえ」
 少しくらい、あふれさせてこぼしてしまった方がいいのかもしれない。
「ん?」
「……お兄ちゃん、寒い」
 ゆっくり体を回す。お兄ちゃんに正面からくっついて、顔を胸に埋めて、腕をどうしようか迷っていたらお兄ちゃんの方から抱き寄せてくれた。わたしもそれにならって背中に腕を回して、小さく息を吐いて、最後に目を閉じる。
「見つかっちゃうよ」
「見つかっちゃうなあ」
 目の前が真っ暗になった途端、他の感覚がドバーっと押し寄せてきて、
 お兄ちゃんのにおい。わたしが一番安心するにおい。
 前を開けてるコートと下に着てるシャツの感触。頬をすりよせる。ボタンがひっかかりそうになる。
 お兄ちゃんの右手とわたしの左手をつなぐ。ひんやり。一瞬だけ脈が伝わったような気がする。
 お兄ちゃんが何か喋ると、胸が振動するのがはっきりわかる。面白い。
 全部ぜんぶ、感じ取れるものを残らず受け止めたかった。そうすれば、きっとこのもやもやを溶かすことができるに違いないから。受け止めて、いつどこでも思い出せるようにしっかり覚えておきたかった。でもそれらは言葉にするのはあまりにも難しくて、結局ひとまとめにしてこう表すしかなかった。

 ――あったかい。

 あと十だけ数えたら勝負に出かける覚悟を固めよう――だけど、そう考えた途端に名残惜しくなってきて、ぐずぐずとゆっくりカウントして、やっと九まできたところで、それ以上先に進めなくなった。
 お兄ちゃんはまたしてもわたしの心を読んでいるかのように、
「合格できますように」
 そう言って少しだけ体を離しわたしの前髪をかきあげて、
 おでこに――。


 なんで今更これくらいで恥ずかしがらなきゃいけないんだろう。
 でも、
「……ありがとう」
 今度こそ大丈夫。
 最後まで執念深くお兄ちゃんの袖を握ったままだった手を、わざとらしく大きく開いて離した。
 馬鹿でかい傘がふたつ並んで、駐車場に向かって歩き出す。
 お兄ちゃんの言葉を頭の中で繰り返す。
 お兄ちゃんは「合格できますように」と言ったが、私の願いは少し違う。
 横目でお兄ちゃんを見る。
 肩にへばりついて溶けない雪。手を伸ばして払ってあげた。
 私の願いは、
「――同じ大学に、入れますように」
 お兄ちゃんが不思議そうな顔でこっちを見る。
 私はただ、にっ、と笑ってごまかした。



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