とぶ



 最近あいつの様子がおかしい。
 以前から変な奴だとは思っていたが、特に昨日の行動は常軌を逸している。
 放課後。よく晴れていた。授業は午前中だけで終わり。
 あいつは机の中から教科書を取り出し、鞄の中に詰めていた。
 どうしてそんなの見てるのかって?
 そりゃあ隣の席だから。
 で、あいつは帰り支度を整えて教室の出入り口まで歩いたと思うとなぜかくるりと向きを変え、再び机に戻ってきた。そして何を思ったか鞄の中身を全部ぶちまけるとその空になった鞄を机に押し込め、散らばった教科書やペンケースやらを素早く、何が落ちていたのか覚えるゆとりもないほど素早く拾い集め、そのまますたすたと歩き出した。
 わたしがちょっとあっけに取られていると、あいつは突然動きを止め、またしてもくるりと向きを変えて机に戻ってきた。邪魔そうに抱えたむき出しの荷物を乱暴に机に置くと、となりにいたわたしの方にノートが一冊、滑り落ちた。
 何気なくわたしが拾おうとすると、
「触るなっ!」
 と怒鳴った。
 むっとして、文句の一つも言ってやろうとあいつの顔を見ると、そんないらだちは一瞬で消し飛んだ。
 あいつは、哀れなほど緊張していた。
 理由は知る由もない。
 わたしが気おされていると、あいつは一つ、大きく息をつき、床に落ちたノートを自分の机に置き、足早に教室を去っていった。
 もちろん手ぶらのままで。



 きっと理解力のない人間はこう思うに違いない。
「少年が自殺しようとしている!」
 しかしわたしにはあいつがそんなくだらない行為のために金網をよじ登っているのではないことがわかった。
 どう声をかけるべきか迷ったが、結局口をついたのは実に気の利かない、つまらない呼びかけだった。
「ちょっと、何してるの」
 屋上の強い風に散らされないよう、何か得体の知れない物事に熱中しているであろうあいつの耳にしっかり届くよう、大声を出した。
 声に反応したのがどうか知らないが、あいつは突如金網を飛び降りて(もちろん空ではなく床がある方に)ポケットから紙切れを取り出すと風にあおられるのもかまわず考え込みだした。
 わたしは次にどういう行動をとればいいのかまったくわからなくなってしまった。
 つまり、それがわたしの限界で、だからこそこうして傍観者でいられるのだろう。

 あの後、何となくついていかなければいけないような気がして、あいつの後を追いかけた。わたしも手ぶらだった。あいつが階段を登るその足取りは決して急いでいるようには見えないのに、気がつくと距離を離されていた。
 もっとも、ひたすら登り続けるその姿から、屋上あるいはさらに高い場所を目指しているのはすぐにわかったので、わたしもペースダウンしたのだが。
 ……さらに高い場所ってどこだろう。

 とにかく、わたしは立ち尽くしたまま。あいつは紙切れとにらめっこしたまま。
 何かしなくては。
 体が固まっているような錯覚に陥っていたが、足はすんなりと動いてくれた。
 すると、
「そこの君!」
 わたしがあいつに向かって歩き出した途端、今度はあっちから話しかけてきた。
 返事の代わりに、またしても全身が硬直した。
「君が証人だ。僕の実験に立ち会ってくれ」



 馬鹿げていると思った。
 でも、こいつがやる分には至極当たり前……なのだろう。
「いいかい、僕はここから飛び降りる」
「そんなことしたら……死んじゃうじゃない」
 わたしの言葉に、あまり感情はこもらなかった。
 既に気付いていた。何を言おうがこいつはそれを実行するであろうと。そして、わたし自身に止める気なんかないことも。
「どうして?」
 あいつは空を――自由なように見えて、重力という"法則"に絶対逆らえないその空間を眺めた。
「飛び降り方がへたくそだからだろう? いいかい、僕が導き出したこの式によるとだね」
 と、ちぎったノートをわたしに突きつけて、延々わけのわからない数学と物理をごちゃまぜにした演説をぶち始めた。
 半分も理解できなかったが、こいつが一生懸命だということは伝わった。
「――だから、僕の足にかかる荷重は最小で済み、人間は地上十階から飛び降りても平気だって証明される」
 話が終わったらしいので、ノートから顔を離し、あいつの方を見た。
 何だか、随分緊張がほぐれたようだった。
 わたしが反射的に笑顔を作ると、あいつも微笑を返してきた。
 それはとても……綺麗だった。純化された喜びがそのまま揮発していくように。
「重さの調整が大変でね。最初は鞄とかを持って飛び降りるつもりだったんだけど、途中でバランスをくずしてしまう惧れがある。結局、このままで行くことにした」
 あいつは両腕をばっ、と広げて裸一貫であると示す。
 そしてわたしの返事を待とうともせず、屋上の端へと歩いた。
 金網を身軽によじ登り、空と屋上の境界である、狭く頼りないコンクリートに立つ。
 校庭を真正面に控え、太陽の作る影は短く濃い。
 誰一人、この実験には気がついていない。
「ねえ」
 わたしの声にあいつが振り向く。
「頑張ってね」
 さっきより素直に笑えた。
 馬鹿げていると思った。
 でも、こいつがこうするのはあたりまえなのだ。
 わたしが見届けるのもあたりまえなのだ。
 失敗という可能性が零になったのではなく、失敗という意味が世界から失われた。
「じゃあ、君もどうだい?」
 あいつが、ごく自然に言った。


 死ぬ? そんなわけはない。
 今は、おそらくわたしの人生でも稀有な、"奇跡が当たり前のように在って、なおかつそれを感じ取れる時間"なのだと思う。
 もはや、奇跡でもなんでもない。
 歩く。息を吸う。吐く。まばたき。
 ああ――。
「どうする。飛ぶかい?」
 なんて野暮な問いだ。
 あんたがこの世界を造ったのに。
 返事代わりに、歩を進める。
 すぐにあいつの所までたどり着き、金網ごしに話しかけた。
「面白いかな?」
 わたしは金網をぎゅうと掴んだ。
「僕はね――僕は面白いと思ったことしかやらない。過程も、結果も、一から十まで、僕は楽んでいる。そして、君が加わることによってより面白くなる確率は低くない」
 やけに子供っぽい表情で、小難しいことを話すのが印象的だった。
 彼の人格をよく知りもしないのに、"らしいな"と思った。
 そして、わたしは金網をよじ登る。
「パンツ見ちゃだめよ」
「悪いけど性欲に勝るものも在りえる」
 彼はおとなしく後ろを――校庭の、空の方を向いていた。
 ややあって、わたしは金網を乗り越え、狭い足場に降り立った。
「来たね」
 わたしは頷く。
「この次は空を飛ぼう」
 唐突に、彼が言った。
「これから行う儀式により、僕たちが空に住まう者になると誓う。空の住人なら、無様に地上へ落ちるわけにはいかない。降りるんだ。まだ未熟だから飛べないが、何事も段階を踏む必要があるだろう」
「そうね」
 次に彼は、意外な質問をしてきた。
「僕のことをどんな人間だと思う」
「んー、科学ロマンチスト。紙一重」
「なるほど……」
 それについてのコメントはそれだけだった。
「じゃあ、いいかい?」
 いよいよだ。
「もちろんよ」
 躊躇いもなく、

 足が、
 離れて。

 ――飛んだ。




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