六畳一間の世界征服 寒風吹きすさぶ真冬。 ここは六畳一間の格安アパート。 物件データ。 風呂――銭湯まで徒歩三分。 トイレ――共同。 台所――共同。 家賃―― 「うるさいよ」 邪魔が入りました。気を取り直して、 壁は極薄。さながら最新鋭コンド 「黙れ。殺すよ」 ……はい。 「おい、誰と話してるんだよ理夢」 「なんでもないよヨンヨン。ちょっと地の文にいちゃもんつけてみただけだから」 「できるのかよ? そういうことが」 「さあ」 「さあ、ってなあ」 貧しいながらも楽しい我が家。隙間風が絶え間なく背中を冷やそうとも、お亡くなりになりそうな蛍光灯が時々明滅していようとも、ガス水道電気といったライフラインが停止するぎりぎりまで支払いをぐずぐず渋ろうとも、NHK集金人を黒マテリアで追い払おうとも、 それでも、こたつさえあれば幸せだった。 しかも籠入りみかんが乗っている。 これでも無闇に寒がるヤツは某常春の国にでも移住したほうがよい。 さらに、ひとまず当面の目標もある。 それは、 「ねえヨンヨン、世界征服ってどうすればいいかな」 背中を丸めて、こたつの上にほっぺたをくっつけて、気だるげに訊くと、 「あ? お前はそればっかだな」 「いいじゃん。暇なんだし」 「暇ならバイトのひとつもしたらどうだよ」 「違うよヨンヨン。いい? 忙しいっていうのは働いてるとき。お金はあるけど時間はないの。逆に、働いてないと時間はあるけどお金がない。わかる?」 「貯金て発想はないのかよ」 「貯金、あるよ」 通帳をごそごそと取り出し、 「ほう、それは初耳だな」 高らかに読み上げる。 「メインバンクに三万円」 「……それは、どこから突っ込めばいいんだ」 「なにそれ」 「まず、三万円しかねえのかよ、というのが一点。それからメインバンクがあるならサブバンクもあるんかい、というのが一点」 「どーして。三万円あれば家賃払えるじゃない」 「……うかつな言動は慎んでくれ」 「それに、ほら、通帳もうひとつ」 黙って次の言葉を待つ。 「せんさんびゃくさんじゅうはちえん」 応える気にもなれない。 「ねえヨンヨン、どうしたの黙っちゃって。ひょっとして、凍死?」 「勝手に殺すな」 「死んだら返事できないもんね」 「ひょっとしたらできるかもしれん」 「それは、怖いね」 みかんの皮を剥く。白い筋を丁寧に取る。ふと外を見れば、立て付けの悪い窓越しに、ちらつく雪が見える。 「どうヨンヨン、きれいに剥けたでしょ」 満面の笑み。 「俺にも一口」 「はい」 放られたみかんの房を見事にキャッチ。 自分も口に運ぶ。 あまずっぱい味だった。 間違いなく、冬の味だった。 「ま、とにかく貧乏だから暇がたくさんあるんだよ」 「俺たちはな」 「それで、この有り余る暇を使って、世界征服の重要でツボを押さえた第一歩をこう、ずしっと踏み出したいんだよね」 みかんの皮を二つ折りに押しつぶして霧のような汁を出しながら言う。 「リーズナブルにやるならアレだ、街頭ティッシュ配りだな」 「どうして?」 「まずティッシュってのは意外と役に立つもんでな。花粉症のヤツなんかがもらうと、すげえ嬉しいらしい」 「でも今花粉症の季節じゃないし」 「ぐ……あーそうだ、風邪だ。風邪引き鼻水垂らしのやつをピンポイントに狙ってだな」 「うんうん」 「配るわけだ。ティッシュには『いっしょに世界征服はどうですか』とかなんとかイカした宣伝文句を書いておく。すると、水っ洟野朗にとってティッシュはこの上なく有難いもんだから、あっという間にお前の虜っつーわけだ」 「ヨンヨン、すごいね」 「そうか?」 「うん、すごいよ。今すぐやろう」 「配るモンがないが」 「あ、そうか。どこで盗ってくればいいかな」 「……いきなり盗品て発想についてはあえて何も言わんが、この雪の中、出かけるのか?」 雪は本降りになってきた。 北国特有の、さらさらした粉雪。 朝まで降り続けば、下手な場所に停めた車なぞ、無残にも雪のオブジェと化す。人力では見つけるのも掘り出すのも難しい。 もちろん春までそのまま。悲劇である。 「やだよ。寒いもん」 そして、ますます深くこたつに潜り込む。 「ヨンヨンはいいよね」 「あ?」 「小さいから、全身こたつに入れる」 「あー、そうか?」 「で、もっといい方法ないかな」 「お前も考えろよ」 「そうだね」 しばらく雪でも見ながら考えようと思った。 すぐに飽きた。 こっそりヨンヨンを伺うと、半目になって船を漕いでいる。 「れっつ、目覚まし」 みかんの皮をヨンヨンの鼻面の先まで持っていって、押しつぶして苦すっぱい液体を噴霧する。 面白いように期待通りの反応が返ってきた。 つまりは、目にしみてそこらを転げまわったわけだが。 「やめんかい!」 涙をこぼしながら怒鳴る。 「だってさあ」 「犯るぞ、この……ったく……」 「あ、そうだ」 「何だよ」 「いいこと思いついた」 「それじゃ、御静聴したろうか」 「自分で“御”つけない」 「うるせえ早くしろ」 小さくしかし深く息を吸って、 「あのね、みかんの皮暗殺事件」 「は?」 「こう、すごい偉い人とかに、みかんの皮をしゅーわっーと絞って」 「ほうほう」 「そうすると、偉い人が悶え死ぬから征服し放題」 「そりゃすげえな」 「ヨンヨン、まじめに聞いてる?」 「俺は何時でもまじめだ」 理夢はちょっとだけ憮然とする。 「もういいや。お茶でも淹れようっと」 言行不一致。 立ち上がろうとしない。 「俺にも頼む」 「うーん……でも、こたつから出るのは世界制服する者としてどうかと思うんだよね」 「おとなしく寒いから嫌だと言え」 「むー」 また二人で外を見る。 降ってくる雪を数えてみようとして、三個でやめた。 「ねえヨンヨン」 「今度はなんだよ」 「じゃんけんしよう」 「茶汲みじゃんけんか」 「うん。いくよ、」 お互い、勝つためのおまじないにひとしきり全集中力を費やし、同時に掛け声を、 『最初は』 「ぐー」「ぱー」 ヨンヨンがパー。 「ずるい……」 「つまりだな、お前は俺が裏のウラをかいてチョキを出すと踏んでグーにしたのかも知れんが、流行は今や、最初にパーだ。わかるか?」 「ずるいウサギはしゃぶしゃぶになっちゃえ……」 「いいから熱いお茶、淹れてこい」 「くそう……」 しぶしぶこたつから出て、部屋からも出る。台所は一階に一箇所あるだけだ。 とぼとぼ歩くと、ぎしぎし床板が鳴く。 時々、建材がとびきり腐っている部分があるのでそこは避ける。 もはやこのアパートの危険区域は全て覚えている。朝飯前だ。 「うう、寒いよう」 がちがちと噛み合わない歯を持て余しながら、急須に魔法瓶からお湯を入れようとする。 が、180度ひっくり返してもお湯は出ない。 文字通り、逆さに振ってもないものはない。 「最悪だね」 仕方がないので、笛吹きケットルに摂氏零度を下回っているとしか思えない水を汲んで、ガスコンロにかける。どれも共同使用のおかげでとても古い。ボロい。 「ううー、寒い」 ひときわ大きく体が震えた。つま先から頭まで、ぶるり、と。次は断続的に膝が笑う。 自分で自分をかき抱いて少しでも暖をとろうとするが、あんまり意味はない。 ケットルの甲高い合図を心待ちにすること暫し。 「おい」 「あ……ヨンヨン」 「おせえよ。なにやってんだよ」 「お湯がなくて。今沸かしてる」 「一旦戻ってくりゃいいだろうが」 「うん……それより、ちょっと、体温、ちょうだい」 ヨンヨンを抱き上げる。 「うわ冷て! やめろ、離せ」 「あったかい……ヨンヨンカイロだね」 「うるせえ! 変な名前つけんな!」 その時、 ピーッ! っとケットルがけたたましく鳴った。 「やっとだね」 「俺はもう冷え性で死ぬ……」 「よいしょ」 理夢はヨンヨンを服の中に入れて両手を自由にすると、お茶を淹れた。 余ったお湯は魔法瓶に足しておく。 ふと思いついて、サインペンで瓶に注意書きを一発。 (1ミリリットル一万円です) なんて素晴らしいアイデアなんだと思った。 誰か、アパートの住人がこの魔法瓶を使えばそれだけで軍資金が貯まるのだ。 湯のみをふたつ持って部屋に戻るなり、こたつに寝転がって潜り込んだ。 たちまち、体が温まる。筋肉が弛緩してゆくのがわかる。 「あー、世界征服したら、ずっとこんなふうにあったかくしてられるよね」 射程距離ぎりぎりにあるリモコンを目一杯手を伸ばして掴み、テレビの電源を入れる。 ニュースだった。 『今日未明、アメリカのホワイトハウスでテロ事件がありました。大型旅客機をジャックしたテロリストはそのまま自爆テロを敢行し、大統領暗殺を狙った模様。墜落により発生した火災は現在もなお収まらず、懸命な消火活動と救助活動が行われています。なお、政府は大統領は無事だと発表していますが、大統領自身の声明が未だないため、国民の間に不安が広がり、政府が大統領の死を隠蔽しようとしているとの声も上がり始めています。現地のリポーターに繋がっております――ホワイトハウス前の山下さーん?』 ぼーっと見入る。 「あー、大変だねー」 このテロリストたちと自分、どちらが世界征服に近いだろうか。 「あんまり死んでないのかな。いっぱい死ぬといいよね」 テレビで記者がわめいている。どうやら旅客機の中のテロリストたちが生きていたらしく、今や現地は混乱の坩堝と化していた。戦場カメラマンが、戦場リポーターを決死の覚悟で撮っている。どちらも、使命に燃えていた。 「んー」 こたつに突っ伏した拍子にリモコンを押してしまい、チャンネルが変わり、昔のドラマの再放送になった。 思いっきり途中なので、話がわからない。 「つまんないや」 のろのろとテレビを消す。 お茶をすすって、ため息をひとつ。 窓の外を見ると、いよいよ雪は本降りだった。もう、遠くの景色が白く染まって判別できない。 こたつに入っている下半身はあたたかく、上半身は鋭く冷えた空気の中。 これは眠気を誘発する。 「うーん……」 湯飲みを両手で挟んで持ったまま、たちまち睡魔に負けそうになる。 頑張って起きていようとしたが、何だか起きてる理由が全然思いつかない。 お腹のあたりがどういうわけかこたつとは一味違う感じで暖まってきた。これも理由が思いつかない。 ――もういいか。今日は寝ちゃおうかな。いいよね。こんな日は、静かでいいよね。もう、明日でいいよね。明日から、本気から征服でいいよね。うん、明日はきっといい日になるよね。家出してよかったって、もっともっと思えるよね。お茶、おいしいな。あ、茶柱。これは縁起がいいんだっけ。湯飲み、はじっこ欠けてる。まあいいや、うん。あーすごくぽかぽかする。とってもあったかい。気持ちいい。なんでだろ。あ、ヨンヨンたら、お茶ちっとも、飲んでない。あとで、叱らなくちゃ。うー……。 そして、深く静かな眠りにつく。 深いくせに、夢を見た。 昔の記憶だった。 あのころは、幸せだっただろうか。 幸せじゃなかった。 今の方がいい。 でも、昔から逃げ出せない。 いくら頑張っても、家出はおろか、まばたきひとつできない。 不思議なことに、理夢を見ていた。 動かない体で、理夢を見ていた。 私が、私を。 小さくて頼りなくて弱虫の理夢は、少しだけ大きくなって少しだけ弱虫じゃなくなった理夢に気がつかない。これまでも、これからも。夢の中では、ずっと。 ひたすら、小さな理夢は昔の、暗くて虚ろな時代を投影し続けるだけ。 ただただ、理夢は過去のリフレインと勝ち目のない戦いを演じるだけ。 叫びたかったが、ささやくこともできない。 目をつむりたかったが、それすら許してもらえない。 石造のように固まったまま、緊張だけが果てしなく蓄積してゆき、限界を超えたとき、理夢の世界は終わる。きっと、終わってしまう。 だから逃げなくてはならない。 理夢が見ている小さな理無も。 無限の悪夢に苛まれる理夢も。 ――はあ、はあ、はあ―― 小さな理夢は、家出しないまま大きくなっていった。 膨れ上がる爆弾をなだめすかして成長していった。 違う。 これじゃ、今に繋がらない。 ――ハアッ、ハアッ、ハアッ―― お願い、せめて、あの理夢にも、私くらいでいいんです。ほんのささやかで小さなものでかまいません。どうか、幸せを、ください。 幸せを! お願いします……どうか……。 そして、理夢は力尽きた。 負けだった。 どんなに頑張っても、過去はそのまま、ただあるがまま。 また、変えられなかった――。 「おいテメエ」 ん……。 「起きろコラ」 誰? 「死ぬ! マジ死ぬ! 空気をくれ! あと暑い! 早くどけっつーの!」 「あれ……?」 こたつに、涙の跡が付いていた。 悲しい夢でも見たのだろうか。 手のひらでこすると、無様に広がっただけだった。 「俺が悪かった! じゃんけんは最初はグーだ! あと今度食糧が尽きかけたら最後のカップ焼きそばお前にやるから! 出してくれー!」 「ヨンヨン? どこ」 お腹のあたりがもぞもぞする。 衣服を緩めると、ヨンヨンが飛び出す。 「ぐわーっ! ちくしょう今ほど冬が愛しいことはなかったぜーっ!」 「どうしたの?」 「どうしたのじゃねぇ! 窒息させる気か!」 「ん? どういうこと?」 返事をするいとまもなく、 「うぐ……」 ヨンヨンは力尽きた。ぺたり、と畳に倒れる。 「ありゃ」 そっと抱き上げて、膝に乗せる。 「う……怖ッ!」 白目を剥いていた。 「もう……」 ぽんぽん、と白い毛をなでる。 こたつには、もう冷めてしまったお茶がまるまる一杯、残っている。 口に含むと、冷蔵庫から出したてであるかのような案配になってしまっている。 「ま、いいか……」 あとでヨンヨンに飲ませて下痢させよう。 そんな悪巧みとは裏腹に、膝の上の相棒を介抱するように、なでる。 「今は、悪くないよね」 もちろん返事はない。 「これからも、ね」 さらにほんの少しだけ、なでる手が優しさを増す。 窓の外では、まだまだ止みそうもない雪が降り注いでいる。 世界全ての音を吸い込んで。 戻る |