A fairy dance in the moonlight



 1.the fairy "Yohko" changed
 
 神無木陽子は鬼の少女である。
 何だよそれ、などと訊ねられても彼女にだってわかりはしない。
 鬼になったところでいいことはないのだが、どっかのヒーローの如く悪の組織と戦ったり、今流行の退魔師のように魑魅魍魎と大立ち回りを演じたりするわけでもないので、その点ではマシかと思っている。むしろそうとでも考えないとイライラしたり落ち込んだりして大変精神衛生によくない。
 だから彼女は神無木陽子であり、鬼の少女であり、ごく普通の中学生なのである。
 たとえ屋根までジャンプしようとも、百メートル走世界記録を塗り替えるほどの健脚が身に備わろうとも、素手で鉄骨を鉄球に加工するほどの怪力の持ち主であろうとも、
 それでも、彼女はごく普通の中学生であると主張してやまない。
 親友の千早はこの意見におおむね賛同してくれる。
 一見ごく普通の狐で、どこからどう見てもごく普通の狐の飯綱だって、ある一点を除いて否定しないだろう。
「なあ陽子、バストなんぼや」
「こないな立派な」
 ……幻聴が。
 研ぎ澄まされた精神を以ってすれば、このような雑念など瞬時に消え去る。
 事実、陽子の心は澄んでいる。
 彼女はつい今しがた、鬼になったのだった。
 鬼とは何だろう。
 時々、物思いにふける。
 わからない。
 わからないが、普段の陽子と、鬼になった陽子とでは決定的な違いがある。
 それは、鬼が為すべき事を捜しているか否か。
 戦う?
 誰と。敵など存在しない。
 妖が起こす事件を解決したりもするが、自分の力に比して、ちっぽけに過ぎる。
 社会的に悪と呼ぶべき人物はいくらでも見つけられる。そいつらを、文字通り抹殺するのだって鬼の彼女には容易い。証拠も残さないだろう。
 が、それは彼女の仕事ではない。
 正義の味方を気取るつもりはない。
 力を誇示するか?
 それこそ無意味な行いだ。彼女自身が望まない。
 ならば何故鬼になる?
 何故鬼の血筋などという時代錯誤で非現実的な存在が許されている?
 ……わからない。
 両親は鬼や妖の存在をあまりにも生活に溶け込ませてしまっていて、こんな相談は一蹴されてしまうか、「あらあら陽子も青春の悩みの真っ只中なんやね母さんもな若いころは随分悩んだもんやでも父さんがおったから平気でいられ(以下ノロケ)」
 ……要するに、重大な問題だと捉えてくれないのである。
 祖父母は物心つく前に死んでしまった。
 友人は?
 迷惑をかけるわけにはいかない。
 その人が大切であるほど。
 そう、頼れるのは自分。
 神無木陽子、自分自身だけ。
 飯綱?
 わからない。
 そもそも飯綱は狐なのだ。
 断じて狐。喋ろうとも、成長しなくも、妙な超能力を持っていようとも、
 狐!
 反論する奴は八つ裂き。
 
 とにかく、今日も鬼になってしまった。
 入れ替わりの制御は今のところ不可能。
 夜が、呼んでいる。
 蠱惑的な闇が誘っている。
 月は円く蒼く輝いている。
 躊躇する必要はない。
 手近な民家の屋根へ、跳躍――。
 


 
2.the fairy "Yohko" dancing

 彼女の住むはとある田舎町。
 駅周辺こそそれなりに人が集まるが、ひとたび足を踏み出せば、住宅地はすぐさま途切れがちになり、田畑が目立つようになる。
 さらに跳べば、山へと分け入るのだってさほど時間はかからない。
 この落差が彼女は好きだった。
 だから彼女は疾走する。
 つまらない悩みを洗い流し、答の出ない哲学的命題を忘れ去るため。
 怪物でも襲ってくればいっそ気が楽だ。
 そいつを殺せば、おそらく揺らぎは収まるだろうに。揺らぐことなく、鬼の使命とやらに遠慮なく埋没できるだろうに。
 我を失くすこともない。ただ、至極あたりまえのように性格が変わる。多重人格にしては記憶が連続しすぎているし、躁鬱とも違う。そもそも精神を患う理由が見当たらない。
 これでも色々とあちらの陽子が勉強しているのだ。
 だが、結局何一つとして実を結んではいない。毎日のようにこんな、とりとめのない思考に取り憑かれている。
 だから、だからこそ彼女は疾るしかない。ワイヤーアクションもかくやというでたらめな身軽さで風を切り、月へ届かんばかりの飛翔を繰り返す。
 背景が凄まじい勢いで流れてゆく。
 耳元でごうごうと風が鳴る。
 ほんの少し視線を上に向けると、昇りきっていない満月が出迎えてくれた。
 光を一身に集め、なおも速く。
 このまま風になってしまえばいい。
 半ば本気でそう思う。
 そして世界中を見て回る。
 悪くない。とても魅力的な提案だ。 
 さあ、大気よ。私を遠慮なくさらってしまえ!
 さあ!
 ……駄目だった。
 落胆とともに足を止めてみれば、もう山の麓。
 振り返れば、遠く街の明かりが儚く明滅している。
 どうやら今度は、人間でいるか、獣となって山に住むか、選択を迫られているらしい。
 そんなの決まっている。
 私は鬼になるのだ。
 どちらでもなく、鬼で在り続けるのだ。邪魔はさせない。
 だから誰でもいい。
 鬼にはどうやったらなれる?
 私はもう充分理解した。私が鬼だと。
 だから今度は皆が私を鬼だと認める番だろう?
「なあ、聞こえるか?」
 月に向かってひとりごつ。
「こんなのひどいと思わんか?」
 空耳か、返事が届く。
 
 何がどうひどいと言うのだ。
 落ち着いて心を研ぎ澄ませ。
 世界をあまねく見渡してみよ。
 音は全ての鍵を握ると知れ。
 匂いは告げているだろう?
 肌に絶え間なく感じるそれを。
 お前はもう認識しているはずだ。

「そんなことない!」
 月が一瞬、朧に霞む。
 何者の所作に拠るのか。
「ああ……」
 暫し、立ち尽くしていた。
 気分を落ち着けたい。もっと街をよく見たいと思った。
 実行できる力は持っている。
 彼女は跳んだ。
 
 街に最も近い山の、最も高い場所。
 うらぶれた売店と、百五十円ぼったくりの自販機がセットでぽつりと建っている。
 かすれた毛筆で、山の名前が書かれた看板が目に付く。かすれているだけあって、判読できない。
 無茶な移動が可能とはいえ、ここまで足を延ばしたのは久しぶりだ。
 夜が私を呼んでいる。
 闇が私を誘っている。
 月明かりは道しるべ。
 星々の煌きが彩を添える。
「ふう……」
 気温が低い。
 頂からは、陽子の好きな街の夜景が楽しめる。
 田舎町故、ごくささやかなものだが。
 こうして距離をとると、妙に落ち着く。
 楽しい輪に入るよりも、楽しい皆を遠くから眺めている方がいいのではないか。
 と、わけもなく考えたりもする。
 理由はわかりかけている。
 証拠は掴んだ。あとは判決を待つだけ。
 そうだ、待つだけ。
 いや、もう、充分に待ったのではないか?
 と、疑問が――
 
 ――肌に絶え間なく感じるそれを。
 
 びりびりと、感じた!
「これは……!」
 瞬時に振り返る。そのまま後ろへジャンプ。横転して木の陰へ。
 振動。間接的打撃。杉の木の表皮が剥げる。
 横目で伺うと、地面が削れ、土くれが撒き散らされ、盾となった木を打ちつけたようだ。
 隠れる動作、その寸毫で見切った相手。
 それは、怪物――。
 鬼たる陽子が闘うにふさわしい。影で体を構成し、アンバランスな手足は機能的とは思えない。
 陽子の倍以上はある背丈。姿形は、例えるならば、何だかわからないもの。
 つまりは、例えられないもの。
 正体不明のもの。
 畏怖の対象。
 恐怖の象徴。
 未知のものに古来よりすべからく与えられる彼の名は、そう、ただひとつ。
 鬼。
 これまで出会ってきた妖とは、あらゆる面で桁が違う。
 
 落ち着いて心を研ぎ澄ませ。
 世界をあまねく見渡してみよ。
 音は全ての鍵を握ると知れ。
 匂いは告げているだろう?
 肌に絶え間なく感じるそれを。
 お前は――私はもう認識しているはずだ。
 
 認識――してしまった。
「上等……! これまでの私の人生、予行演習だったとでもいうんかッ!」
 瞳がひときわ紅く染まる。知らず、口端が持ち上がり、笑みを形作る。
 快楽。愉悦。感情の奔流に押し流されてこぼれるは、
 鬼の嬌声。
 中途半端な非日常に悩む少女は、消えた。
 脚の筋に力を溜め、瞬発力を最大限に発揮して、
「りゃあ!」
 鬼に突進。
 声を後ろに残すほどのスピードで間を詰める!
 闇に溶け込み、なおかつ闇より浮き出たその鬼は、小柄な陽子を腕の一振りで潰してしまおうと、
 しかし、陽子の腕が影に包まれ、一挙動で上半身を半回転。反動で鬼の振り下ろした腕を真っ向から自らの拳で受け止める。危機を悟ったのか腕を戻そうとするも陽子の動作に完全に追従できず、影の体がばくりと抉れ、飛び散った影の欠片どもは地面でなおも蠢いている。
 陽子の左半身もまた影――いや、漆黒の闇に包まれ、その姿はこれも鬼の名を冠するにふさわしい。
 影鬼は不随となった右腕に頓着せず、左手をとうの昔に陽子の闇に覆われていない部位を狙って繰り出し、しかし陽子はそれをさらに懐深く潜り込みかわした。
 四分の五秒。
「だあぁっ!」
 渾身の突き。避けようもない攻撃を影鬼は自らの腹部を空洞として凌ぐ。
「え――?」
 抑えようもなく湧き上がる戸惑いと驚愕。
 体の内部にあるにも関わらず空振りした拳を戻す暇もなく、体勢を立て直す隙も与えられず、影鬼は腹部を穿って産んだ黒い霧で陽子を包み込む。光を吸収する色、黒同士なのに明らかに異なる影と闇がぶつかりあう。陽子が呑まれる。凄まじい圧力が襲う。体が悲鳴をあげる。
 ――死ね!
 憎悪で胸が埋め尽くされる。
 それでも、力比べで勝てない。
 ――私が、死ぬんか?
 恐怖が忍び寄る。
 勝てない気がする。
 ――死にたくない!
 そして、死への拒絶が極限まで振り切れ、
「はあ、はあ、はあ……」
 陽子は生きた。
 左半身に闇を纏い、
 右手指に月光で形作った五本の長い爪を生やし、
 雄々しく陽子は立ち上がる。
 あくまでも夜は陽子の故郷であり、いざない、取り込み、時に成長の手助けをもする。
 影鬼自らの体を使った牢獄は月より授かりし五本の刀によってズタズタに切り裂かれていた。一回り小さくなったと錯覚するほど、肉を失い原型を崩している。
 陽子の双眸がすう、と細まり、闘争心が新たなものへと充填される。
「今日は、もう終いや」
 陽子の爪が、自らの頬を優美になでる。
「眠うなった」
 爪が無造作に振り下ろされた。
 
 


3.the fairy "Yohko" getting...?
 
 怪物が死んでゆく。
 最後まで、声のひとつもあげなかった。
 断末魔もない。
 淡々と、消え去る。
 影が闇に溶ける。
 それこそが、未知なるものである鬼の得た、ただひとつの道理なのかもしれない。
 ――怪物が現れたぞ。
 どうだ、望みが叶ったじゃないか?
「そうやな」
 嬉しいか?
「ああ……そうやな」
 鬼とはなんだ?
「……わからん」
 ならばお前は何者だ。
「……黙れ」
 お前も鬼だ。
「……」
 もはや力の矛先に困ることもない。
「だから、どうだっちゅーねん……」
 嬉しいか?
「この……!」
 闇に溶けてしまえ。月に魅入られよ。夜はいつでもそなたを歓迎する。

 鬼の姫君よ――

「黙れっ! 死にたいんかっ! このっ、たいがいにせんと、どう……殺すッ! 殺してやるっ!」
 陽子は咆哮した。
 ざざざざ……。
 山の木々が一斉になびく。
 悲鳴にも似た絶叫は、流れ溶けて消えた。
「う……ひくっ……」
 これはしゃっくりや……泣いてなんかない。なんや滲んで見えるんも目がおかしいからや。泣いてなんかない。悲しくなんか、ない。絶対にや! でも、なあ、どうして、鬼、なんや。私。なあ?
 瞳だけでなく、目全体が真っ赤になる。
 変わらない街の夜景が、やけに遠く見える。
 もう、戻るべき場所ではないような気がした。
 あんなに大好きな故郷に。
 とっても大好きな故郷だからこそ。
 帰っても、いいのかどうかわからない。
「陽子……」
 また呼ばれている。
「なあ、陽子!」
 夜の誘惑を断ち切る自信のないまま、振り返ると、
「陽子、なあ、どうしたんや。こんな夜遅くに」
 馬鹿馬鹿しいくらい白々しい口調。
「……飯綱」
 意外な相手がいた。
 とことこと、呑気に歩いてきたのか?
「もう帰ろ、な?」
 なだめすかすような声音が癇に障った。
「全部、知ってるんやろ」
 飯綱が面食らったようにぴくん、と体を振るわせる。
「そう、やな? なあ、鬼って何や。妖って何や。鬼の血筋は? 私は、鬼か? 答えんかいっ飯綱!」
 体ががくがくと震えていた。
 それでも止まらない。
「お前も妖怪なんやろ? お母さんは何? なあ、もう、飯綱、なあ?」
「……反応があったから来てみたが……随分急に事が進んでもうたようやな。
 陽子、すまん。
 堪忍してくれ。この通り」
 飯綱が地面に頭をこすりつける。
 やめてほしい。
 どこへこの感情をぶつければいいのだ。
「陽子、あのな……」
「ん」
「家に帰れば、紅葉はんがなんもかんも教えてくれる。今、この口からだって話せる」
「うん」
「でもな、あのな、その……お前は家族も、友達も、帰る家も、好きな場所も、なんもかんも失くしてへん。ってそれじゃ、駄目か?」
 たどたどしく告げる飯綱は、間違いなく陽子をいたわってくれている。
「だから、な? 帰るよ、な?」
 大丈夫……?
 今はそうかもしれない。
 でも、これからもそうだとは。飯綱には悪いけどとてもそこまで楽観できない。
 きっと、私は大切なものを失くす時が来る。
 私が鬼だから。
 でも……。
 失くしたくない。
 だから私は――
「うん、帰ろか」
 わかりやすすぎるほど、飯綱の表情が明るくなる。
「そうや、帰ろ」
 飯綱を抱き上げた。
 昔からちっとも変わらない感触。
 私の信じるものは、今は、これだけ――

 かりそめでもいい。幸せを。
 これからの私は、それを永遠にするために。
 まだ、知らないことだらけだけど……。

 鬼として、生きる。



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